2022年6月からホームページ再出発しました。まだ未熟ではありますが、随時ちょこちょこ更新していきます。ちょこちょこ見てください。
住職 大嶋三郎 (釋法雄)
坊守 大嶋悦子 (釋好円)
【合掌するは法なり】
『ホロホロと鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思う、母かとぞ思う』と読まれた歌があります。歳を重ねてまいりますと、親がなつかしく思うものです。それだけ、ご両親のご苦労が身に染みてわかるようになるということでしょう。また、『父は照る、母は涙の雨となり、同じ恵みに育つなでしこ』という歌もあります。ご両親のお育てをあらためて味わいながら、この度のご縁を勤めることであります。
「合掌するは法なり、法よく機を摂し、三業を柔軟せしむ」という法語に出遇いました。法というのは仏法(ぶっぽう)、仏様の教えということです。機は、凡夫。つまり煩悩を抱えた私のこと。そして、三業とは身業、口業、意業のことです。この身での行い。この口から出る言葉。心で思うということでしょう。皆さんはどうですか?思うようにならないと、腹がたって、口調が荒くなったり、八つ当たりしたりしませんか。
小さい頃、祖母と一緒にお内仏様にお参りしていた頃を思い出します。私にまんまんしなさいと、手を合わせることを教えてくれました。そして、私に「仏さまは、見てござる。聞いてござる。知ってござる」と、よく話してくれていました。おそらく私が悪いことにならないようにと、話してくれたのだろうと思います。今、振り返ってみますと、何も難しく話すのではなく、合掌するという形を通して「仏さまは良く私のことをよく存じ上げて、条件次第では、何をしでかすかわからない私に、少しでも私が悪い方へ向かないように」と、教え育ててくれていたのでしょう。
私の祖母のことを話しましたが、「浄土の往生人は、諸々の衆生のために、法を説く」とあります。仏様の教え(仏法)は、人を育てるものであります。お浄土へ往生された父や母からお育てを頂いているということではないかと思います。そのお育てこそ、仏法に遇わせていただくことです。
ご法事は、仏様の教えに遇わせていただくご縁であります。あらためて、故人を偲びながら、手を合わし、お念仏もうさせて頂いた尊いご縁と味わって終わります。ありがとうございました。
【生かされて 合掌できる ありがたさ】
武者小路実篤さんの本に、「人間に生まれた仕合せは、手を合わす両手を持つこと。そして、一番美しい人間の姿は、手を合わせている姿である」という一節があるそうです。また、人間は自由に動かせる手を持ち合わせたことが、頭脳を発達させ、文明を築いてきたとも言われます。そういえば、認知症予防のために手や指を動かすことが推奨され、介護施設などでも指の運動をリハビリの一環として取り入れられているようです。
私が学生の時、もう50年ほど前になりますが、奈良の薬師寺の官主であった「高田好胤」さんの講演を聞いたことがありました。その時に、「幸せは、右の手のしわと、左の手のしわを合わせること。つまり、しわ合わせ・・しあわせ・・幸せ」なるほど、手を合わせること自体、幸せなことだと思いました。そして「その反対、手で拳をつくって、ぶつけ合うと、節あわせ・・不幸せです」人を傷つける道具になりかねないです。
合掌は、掌を合わせる形ですが、相手に危害を与えない、あなたを尊敬しますという姿です。今日、こうしてお参りの皆さんと一緒に、手を合わす姿をさせていただいたことが、幸せなことなのでしょう。そして、人間に生まれさせていただいて最も美しい姿をさせていただいたご縁と味わって終わります。ありがとうございました。
【大丈夫。心配しないでいいよ】
阿弥陀様のお姿(御木像)をよく見ると、右手は、OKとサインをしているように見えます。これは、『施無畏(せむい)印』と言って、「畏(おそ)れることは無い」という印。つまり、「怖がらなくてもいいよ。心配しなくても、畏(かしこ)まらなくてもいいよ~」と声をかけて下さるサインです。左手はどんなに小さないのちも漏らさず、捨てることなく救い摂りますという『摂取不捨』の印を表しています。ですから、心配しなくても大丈夫です。
【朝(あした)に紅顔(こうがん)あって】
本願寺の第24代門主(即如前門主)が『朝に紅顔あって』という本の中で、「誰もがいずれは老いてゆく。それもまた、人間のつとめなのです。老いてゆくということが恥ずかしいとか、つまらないということではありません。素直に年を重ねるということ自体が、人としての仕事であり、一つの役割だと思います。・・・老いてゆくさま、さらには死んでゆくさまを、周りの人に知ってもらい、考えてもらうというのは、人間の最後のつとめではないでしょうか」と述べていらっしゃる。
(今日、満102歳でご往生なさったお母さんの葬儀を営みました。本土より帰ってきた子や孫にも、初七日のご縁にあって欲しいという遺族の意向もあって、火葬を済まされた後に、本堂で初七日の法要を勤めました。その法要で、上記のことを紹介し、身業説法<しんごうせっぽう>ということを話しました) 身業説法とは、一般にいう「お説教」(口で話すことによる説法)に対して、所作などの体の動きや行動、立ち振る舞いによって心にうったえる、心が説得されることによる説法のことです。年をとりますと体が自由に動かせなくなります。また、生まれた限り必ず死ぬということもそうです。亡き人が身を以て私たちに教えて下さった「いのち」の事実、身業説法です。そのことをしっかりと受け止めていくことが大切です。最後に、この度のお母さんの死は、お母さんから私たちへの最後の贈り物になると思います。コロナもそうですが、暑い暑い日が続きます。お身体を大切下さいますようお願いします。有り難うございました。8月3日
葬儀、火葬のあと、初七日法要を皆さんで。
ふるさとへ母の遺骨を。法要後、久遠堂へ分骨。子供が少ない平良だけに、久しぶりに子ども達と話が出来て嬉しいひと時でした。
大阪・吹田市からお参りされた脇田隆英さんのご家族です。ちょうど梅雨の真っ最中でしたが、幸いに晴天に恵まれ,良きご縁でした。
6月16日午前
90歳になられましたMWさん。御主人の13回忌法要に川内市内の施設からお帰りになられました。
お元気で何よりです。
お盆の入り(13日)、お父さんの7回忌、お母さんの50回忌の法事をお勤めしました。地方(じかた)から20名の家族が一同に集まり、にぎやかな法要になりました。 施主の畑さんは、最初で最後かもしれないと、嬉しそうに話されていました。(8月13日お昼前)
春うららかな日、千葉県市川市と大阪八尾市にお住いの中村さんのご家族と脇田さんご夫妻です。初めて橋を渡って、手打まで行って来られたそうです。(3月30日夕座後)
お父様のご法事に遠近各地から中村さん御兄弟が揃われました。真ん中のお方は川畑由美子さん。お母さん、お姉さんのご法事をつとめられ、多くのご縁あられる方がお参りされました。
有難いことです。また嬉しいことです。(5月11日午前)
東京、神奈川県藤沢市からお参りになられた森さんご夫婦と稲井さん。左の方は江石の西さん。 久遠堂の納骨所にご先祖のご遺骨が納められています。(5月11日午後)
江石の濵邊さん宅のご法事をつとめ、玄関を出ようとしていたら、メジロの巣があると教えて下さり、こんなところに?と驚きました。何でも奥様が剪定をしていて気づかれたそうで、最初はハチの巣かと思われたそうです。人の出入りする玄関のそばに巣をつくるとは?と思いながら、逃げずにじっと卵を温めている親鳥と、そっと見守って下さるお家の方の優しさに、心温まる思いがしました。 (5月22日午後)
お母さんの一周忌。兄弟(姉妹)皆揃ってお参りされました。有難く思います。7月6日(10時30分)
阿弥陀経の共命之鳥(ぐみょうしちょう)の話をしました。
正浄寺の責任役員を半世紀にわたりつとめて下さった池脇学様が 7月17日にご往生され、19日に鹿児島市で葬儀が営まれました。 写真は出棺を前に、最後のお分けれの様子です。 後日20日に平良の自宅へ戻られ、 還骨・初七日のおつとめを行いました。
永年にわたり、旧平良漁協組合長、上甑村議会の議長を務めるなど中心的存在としてご尽力下さいました。もう少し娑婆の縁が続いてほしいと願っていましたが、無常迅速、会者定離の理をお示し下さったものと味わっています。
21日、久遠堂へ納骨。 機会を見て京都お。大谷本廟へ分骨します。
前列の方々が、平良に帰られたご家族。後列は平良のご縁の深い方々。